脚本家の橋田壽賀子さんが、4月4日に急性リンパ腫のために亡くなっていたことがわかりました。御年95歳でした。
そこで、今までの橋田さんの作品を振り返りながら、その人生について、調べてみることにしました!
橋田壽賀子さんはいつから脚本を書いていた?波乱万丈すぎる半生!
橋田さんは、1925年(大正14年)に日本統治時代のソウルで生まれました。
それから1934年に日本に帰国し、大阪府立堺高等女学校(現:大阪府立泉陽女学校)に入学しています。
まさに第二次世界大戦のさなかに生きておられたのですね。
ご本人は、この時にご友人を目の前で機銃掃射で撃たれて亡くされたと語っておられます。
この経験が、後の傑作を生み出す糧になられたのでしょう。
1949年に松竹に入社して脚本部に所属し、そこから脚本を書く仕事に携わるようになったそうです。
なんと、この時、橋田さんが初めての女性社員だったようで、色々と大変だったようです。
当時はまだまだ男社会。
橋田さんだけお茶くみや掃除をさせられてしまい、「やらない」と口答えをしたら、とうとう先輩達に嫌われ、脚本家としての仕事がなくなってしまったそうです……。
その間、児童向け雑誌で少女小説を書いて生計を立てていたとのこと。
今からは想像もつかない、厳しい時代ですね……。
そんな中で、初めて橋田さんが一人で仕上げた脚本の作品は1952年公開の映画で、女優の岸恵子さんが主演の『郷愁』でした。
実母と実娘の生き別れのストーリーでしたが、もう既にこの頃から後のヒットを感じさせる片鱗が出ている作品だそうです。
調べてみましたが、今のところ、観られそうな動画サイトはないようです。とほほ……。
橋田寿賀子さんは1959年に独立! それからの快進撃がすごい!
橋田さんは、1959年に松竹を退社し、フリーの脚本家になります。
しかし、ここでも3年ほどは不遇だったようです。
テレビ局に売り込んでもなかなか採用されず、漫画などの原作を書いていたそう。
やっぱり厳しい時代だったようです……。
そんな時代を経て、1964年、「日曜劇場」の枠内のテレビドラマ「袋を渡せば」で脚本を務めることになり、その後のテレビドラマ「愛と死を見つめて」の脚本がヒット。以来、次々とヒット作を作っていきました。
「袋を渡せば」で初めて生涯の盟友であるテレビプロデューサーの石井ふく子さんとのタッグを組んだのですよね。
ここからが橋田さんの伝説の始まりと言えるでしょう。
この頃のドラマは映像としてなかなか残っていないそうですが、「愛と死をみつめて」はTBSチャンネルで時々放送されるそうです。
それからは、「日曜劇場」の枠内にとどまらず、次々と橋田さんが脚本のドラマが放送されています。
その数100作以上!すごいですよね!
中でも、1983年に放送されたNHK大河ドラマ「おしん」や、1990年から放送がスタートした「渡る世間は鬼ばかり」は皆が知っている代表作ですよね。
「おしん」はNHKオンデマンドで、「渡る世間は鬼ばかり」は動画サイトPraviやHuluで観ることが出来ます。
渡る世間は鬼ばかり
また、橋田さんは、ご自分が脚本を書くばかりではありませんでした。
1992年に、夫である岩崎嘉一さんの遺産などを元手に、「橋田文化財団」を設立。
「橋田賞」を創設し、後進を見出すことにも力を入れていました。
脚本家として大成功の橋田壽賀子さん! 私生活はどうだったの?
脚本家として、次々と作品を世に送り出してきた橋田さん。
1966年の5月1日、41歳の誕生日に、当時TBSのプロデューサーだった岩崎嘉一さんと結婚。
結婚式の仲人は石井ふく子さんだったようです。
石井さんとは、本当に公私ともに深いお付き合いをされていたのですね!
岩崎さんとの結婚生活は、厳しくも良好だったようです。
岩崎さんからの「不倫と人殺しの話は絶対に書くな」との約束を、橋田さんは生涯守り通しています。
また、岩崎さんの前では脚本を書かず、家事の合間に仕事をしていたようですが、橋田さんにとっては、その緊張感がいい仕事に繋がったのだそうです。
しかし、1988年の9月、岩崎さんは肺腺がんと診断されてしまいます。
橋田さんは、岩崎さんが落ち込んでしまうことを心配して、そのことを岩崎さんに隠していました。
その時、橋田さんは1989年からのNHKの大河ドラマ「春日局」の放送を控えていましたが、そのような状態で、本当に岩崎さんの看病と脚本の仕事が両立出来るのか、悩んでいました。
それを石井さんに相談すると、石井さんからは背中を押され、仕事と看病を両立することにしたそうです。
石井さんとの絆の深さを物語るエピソードですよね。
それから、1989年9月。岩崎さんは亡くなってしまいます。
そのあと、橋田さんは静岡県熱海市に移り住み、愛犬と一緒に暮らす日々を送っていました。
最近の橋田壽賀子さんはどんな生活を送っていたの?
橋田さんは、2015年に文化功労者として選出され、2020年には文化勲章受賞者にも選出されていました。
その時に、「安楽死をテーマにした作品を作りたい」と言っていたそうです。
90歳を過ぎてから、自分が認知症や寝たきりになった際は安楽死を望んでいることを明らかにしており、終活にも取り組んでいました。
実際に、橋田さんが亡くなる前と後の流れもとてもスムーズでした。
今年の2月下旬から急性リンパ腫で入院していましたが、今月の3日に自宅に戻り、女優の泉ピン子さんに思い出のドレスを着せてもらい、穏やかな最期を過ごされました。
ご本人の希望により、葬儀は行われず、5日には火葬されたようです。
橋田さんの遺産も橋田文化財団で活用され、また、お墓も、既に決まっているとのことです。
普通は、人が亡くなる前や後は、親族や周りの人達があれこれ色々な対応に追われ、揉めてしまうことも多いだけに、人生の引き際もお見事と言わざるをえません。
橋田さんが亡くなったことに寄せられた視聴者からのコメントは、
「心よりご冥福をお祈りします」、
「95歳までしっかりしていて大往生。羨ましい」、
「田中邦衛さんに続いて橋田寿賀子さんまでお亡くなりになってしまって寂しい」、
「たくさんの素晴らしい作品を残していただいてありがとうございました」
と、その死を惜しみ、生前の功績を称えるものが多く発信されていました。
戦争や女性差別に遭いながらも、それに耐え、努力を続け、たくさんの作品を生み出していった、大脚本家の橋田壽賀子さん。
今では、彼女に続くたくさんの脚本家や、彼女に見出された俳優さん達が、テレビに限らず、様々な媒体で活躍をしております。
コメント